久方ぶりにちょいとだんじり彫刻の談義を。
もう何年か前ですが、岸和田市は極楽寺町の方からいただいた写真をご紹介します。

極楽寺町といえば、その先代だんじりは昭和28年に大義こと植山義正さんの手により作事されたもので、彫刻は、森曲江師の一番弟子でもある上丹生(醒ヶ井)彫の井尻翠雲師の作。
ではその、左右の松良を新調当時の作品でご紹介しましょう。

まずは向かって左から。
おなじみ「頼光一行 酒呑童子の砦をめざす『大江山』」です。
その最上部には「三神の化身」が確認できます。

その下、中ほどには源頼光の姿。

この部分を、同じ井尻翠雲師が昭和54年に世に送り出した作(板原町先代)で確認すると、このような感じです。

その裏面。
最上部には盃を手にする酒呑童子の姿。

最下段には、花園中将の娘。
手に持っているのは、血の付いた着物。川の水で洗っている様子です。

同様に、板原町先代(昭和54年)に組み込まれた翠雲師作もの。

酒呑童子(しゅてんどうじ)(ウィキペディアより抜粋)
丹波国と丹後国の境にある大江山、または山城国と丹波国の境にある大枝(老の坂)(共に京都府内)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、茨木童子などの数多くの鬼共を部下にしていたという。伝承では酒呑童子は最終的に源頼光とその配下の渡辺綱たちに太刀で首を切断されて打倒された。東京国立博物館が所蔵する太刀「童子切」は酒呑童子を退治した伝承を持ち、国宝に指定され天下五剣にも選定されている。また源氏所縁の兵庫県川西市の多田神社が所蔵する安綱銘を持つ太刀「鬼切丸」も酒呑童子を退治した伝承を持っている。

続きまして向かって右の松良。
こちらもおなじみ「弁慶 義経を懲打す『安宅の関』」の名場面です。

同様に板原町先代から。
昭和28年の作から、昭和54年までの26年間で井尻翠雲師の作風にも変化が見られますね。

その反対側、最上部に…いました!
片膝をついているのが富樫康家。


中央部分。右ての杖を振り上げているのが、おそらく弁慶かと。

ということは、この上側の人物が源義経かと…。

勧進帳(安宅の関)のあらすじ(ウィキペディアより抜粋)
源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語である。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。辿り着いた関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言う。しかし、関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、山伏は通行罷りならぬと厳命する。これに憤慨した弁慶は仲間と富樫調伏の呪文を唱え、疑いを晴らそうとする。
感心した富樫は先の弁慶の言葉を思い出し、勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問いただすが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。
富樫は通行を許すが、部下の一人が強力(ごうりき、義経)に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、その疑いを晴らす(初期の演出では、富樫は見事に欺かれた凡庸な男として描かれていたという。後になり、弁慶の嘘を見破りながらその心情を思い騙された振りをする好漢、として演じられるようになった)。
危機を脱出した義経は弁慶の機転を褒めるが、弁慶はいかに主君の命を助けるためとは言え無礼を働いたことを涙ながらに詫びる。それに対して義経は優しく弁慶の手を取り、共に平家を追った戦の物語に思いを馳せる。そこへ富樫が現れ、先の非礼を詫びて酒を勧める。それに応じて、弁慶は酒を飲み、舞を披露する(延年の舞)。舞いながら義経らを逃がした弁慶は、笈を背負って富樫に目礼。主君の後を急ぎ追いかける(飛び六方)。

多くのだんじりの特に松良部分に組み込まれている題材を、
戦後から昭和の末期にかけて、だんじり界でご活躍された井尻翠雲師の作品でご紹介しました。
今なお、そのお孫さんにあたる井尻さんもご活躍中です。